ささくれ立つ心

訳あって、最近は一日の殆どを都内で過ごしていて、
とある駅から目的地まで、約15分〜20分程あるいている途中に、今までは慌しくて殆ど意識がなかったけれど、今日、明らかに変化しかかっていた部分が有る事に気付いた。

今まで自分は、社会の輪の外、ないしは内側(内部ではなく)から、離れた立場、離れた視点でぼんやりと、すれ違う人々を、どちらかと言うと「憐れみ」のような感覚で捉えていて、憐れみながらも、「いつか、自分が…」この世界を変えてやる…とまでは大仰過ぎだけれど、それに近い意識を強く持っていた。

それが、今日歩いていたら、憐れみ、救いの意識よりも、もっとネガティブな意識。
こいつら、もう手の付け様が無い。さっさと消えればいいのに。助けるにも値しない…etc
という、自分にしては、えらく俗物的な方法論に傾いている事に気付いて、直後、なるほどと納得。

ここで、この考えに傾いている事に気付く事が出来なければ、おそらく、世の中の流れに流されて、知らずと組み込まれていたかもしれないという意識。
確かに、見ず知らずの他人、世界、世の中を突き放す事、世界を変える事をくだらない世迷言だったとして蹴る事は簡単。

だけど、やっぱり、そういう人間には絶対なりたくない。
そのような生き方が例え、生きづらくても、誰もが望んでいなくても、自分だけは最後まで、ライ麦畑のcatcherである生き方を貫き通したい。

そして、そのために、今の自分に必要な事は、
寛大な心と、心の余裕、そして自らの絶対的な視点。

こうなって初めて、母親や父親から、チラリと言われる、「思想は出来てるが、余裕を持たないとすぐ壊れるよ」という言葉がしみて来る。