ズレ。プロセスの説明が好きな人の駄文

最近とある事について話す時、自分の中で何かがズレていく・ズラされる感覚を覚える。

この記事を書いている今も、自分自身が、一体何を書きたいのか解っていないので、
悪意と取らないで頂きたい。
単に、言語化することで、自分の思考プロセスを筋道立てる事が出来たらいい希望というのと、
私の思考プロセスを表す文章を読んだ不特定多数の内の、誰か一人でもが理解してくれる可能性を確かめてみたい。

では、徐々に本題に近づける事を祈って。

私は昔から、物の構造を「知る」という事が大好きな少年であったらしい。
記憶には無いのだが、親の言う所に拠れば、
私は幼い頃から、電子機器を分解しまくる、分解魔だったらしい。
勿論、壊して分解するのではなく、ドライバーやらの工具や、身近に使えそうなツールを代用とし、
それらを使って、分解可能な所まで分解していたそうだ。

確かに、私の記憶にも薄っすらと、
ビデオデッキや、車載CDチェンジャ(トランク内部に取り付けられている奴)、テレビ、時計…。
と、数々の電子機器を分解してきた記憶が無いわけでもない。

ところで何故、分解する事が好きだったのか。
本来、家電製品や、身近に溢れる物は、製品として完成されており、
それだけで最高の動作をするように出来ている事が常だ。(例外はあるが)
あえて、その完成を分解という形で崩壊させてまで、分解という行為に没頭したのは、単純に「好奇心」であると思う。

普段見えない裏側。様々な動作をするこの機器は、一体どういう仕組みで動いているのだろう?

ケースを開けるという行為、それは私にとって、宝箱のフタを開けるという行為に他ならない。

しかし、開けてみても、分解してみても、どうしても分解しきれない部分が出てくる事があった。
専門/専用のオリジナル工具を使わないと開けられなかったり、
そもそもが、それ以上の分解を想定していないパーツで、圧着や溶接で、がっちりと固められているものだったり。
私の場合、そこでその分解できない一つのパーツを分解しようという執着はなく、

「これは分解できないみたいだけれど、これで一つのパーツなんだ」と思って納得してしまうのである。

好奇心の限界。

確かに、もっと燃えるような好奇心が分解しきる事自体に執着を生んでいれば、
手持ちの工具でどうしても分解できない。が、やはり中を見たい。という葛藤の中でも、
破壊する。という選択肢も無くはない訳だが、私はそれをする程の好奇心を持ち得なかった。

そんな流れで、だいぶ私自身も成長し、手当たり次第に分解してしまう、「分解癖」は少なくなっていった。
それは、特にPCという玩具を買い与えられた頃から顕著になった。

そう。
単に「分解、解読、再構築」の好奇心全てが、PCに注がれたのである。
小学校2年生。まだネットには繋がっていない。ネットに触れたのは六年生頃の話だ。
その頃の私は、ただひたすら、WindowsというOSとアプリケーションの関係、
それと、これがキーポイントだと思っているのだけれど…
「PCの性格」という物を感覚する事を覚えた。

「概念」という目に見えないものを、想像と推測、そして実験、観測。
その頃の知能では、難しい仕様書や説明書を読み解く事の方が大変なので、主にそれだけで構造を解析していた。
その結果、WindowsOSの、「性格」が手に取るように理解できるようになった。
しかし、感覚的なもので、OSの性格を見て判断してしまう反面、
いわゆる、PCのPCたる動作というものが理解できなくなってしまった。
歪んだ「あたりまえ」を植え付けられてしまった為に、正しい「あたりまえ」が理解できなくなったのだ。

思えば、これも幼少期の頃から、無意識にヨーグルトの容器の構造と、空気の存在と、
フタをあける際に、容器とフタに掛かる力の影響等を考え、
何故、フタをあける時にヨーグルトが飛び出してくるかを推測し、
ヨーグルトの容器のフチを片手で押え、もう片方の手で、
容器内部の空気を圧縮しないように、フタの上には力を一切掛けず開け、飛び出させない方法を、自然に身に付けてみたり、
●いまさら聞けない?! 「本当」の開け方!
正に、こんな感じで、CDケースの構造や材質から、この開け方を自然にマスターしていたりする辺りも、かなり同影響が強いかもしれない。

それがどのように今に繋がるか。

例えば、私は、Windows以外のOSを未だに触ることが出来ない。
何故か。
その他のOSの、綺麗過ぎる、PCとして当たり前すぎる動作が、私にとっては障害になるのだ。
さらに、私は、そこまでの好奇心が無い為、システムからハードウェアに密接する部分が相当甘い。
要は、論理的な知識が必要になってきてしまうと、ダメなのだ。
(あ、あと計算とか数字が出てくるとダメだね。数字恐怖症。ビットだのバイトだの1024だのうわぁぁぁ燃えたぁぁぁ!)

例えば、私は、とある未知のアプリケーションに触れる際、感覚で捉えた性格から、
すんなりと、そのアプリケーションが出来る「はず」の事を思いつき、機能や設定を探す事が出来る。
今では既に、文章もある程度には読める知能を得たし、ネットもある。説明書やhtmlのマニュアルを読む事も出来るようになった。

恐らく、殆どの人は、暇つぶしに家電やらなんやらの、分厚い説明書を読んで楽しむ趣味なんて無いのではないだろうか。
恐らく、大抵の人は、アプリケーションの主機能を使うだけで満足であり、十分なのではないだろうか。
そのアプリケーションの仕組みを理解し、
設定項目を眺めたり、一つ一つの機能の動作を推測、検証する趣味なんて無いのではないだろうか。

私がアプリケーションの出来・不出来を判断する材料の一つに、
初めて起動し、ウィンドウを見た瞬間に、ぱっと思いついた設定を実現できるか否か。というのが有る。

構造や作りが優れたアプリケーションというのは、
そのアプリケーションがもつ役割に関して、特に不自由なく設定次第でどうにかなるものである事。
が、欠かせない。

よく、シンプルイズベストとか、あまりに多い設定項目にうんざりする方が居るが、
シンプル過ぎたせいで、設定可能な項目が少なすぎるせいで、
アプリケーション本来の役割の力を、大幅に落としてしまっているものが多々ある。

私はそういう意味で、どれだけ設定が複雑であろうと、抑圧されていないものを好む。
そして後の話にも関連するが、OSとアプリケーションとの親和性を重視する。
それはつまり、安定性であり、OSとアプリケーションが出来るだけ切り離されているものを好む。
(安定性などをWindowsに求めるな。との言もあるが、不安定なOSに拍車を掛けるものを常用するのはおかしい)

…そろそろ、話を終える方向へと持っていきたい…。

良い事例が思い出せればいいのだが、何一つ思い出すことが出来ない。ので、仕方ない。
要するに。

何か目の前にアプリケーションがあれば、そのアプリケーションの限度や欠点を見出し、
その限度や欠点の部分が「いや、出来るはず」と、私の感覚が訴えれば、とりあえず設定を練ってみる
それが出来そうにないのであれば、そのアプリケーションの限度や欠点をカバーした、代替のアプリケーションを探す。
そしてまた繰り返す。
常に、定評を持つものや新たに開発されつつ有るものを試し、自身の感覚で評価する。

OSもある意味で複数のアプリケーションの寄せ集めだ。
ただ、一つ一つのパーツを代替させることが困難なので、設定だけをひたすら練りまくるしかない点を除けば。
しかし、それで大方なんとかなる。

私の使っているこの環境は、今、正にそれを数年繰り返して、用途別に厳選したアプリケーション群で成り立っている。
しかし、これが最高。という訳ではない。その用途に使い慣れたアプリケーションを既に持っていたとしても、
暇が有れば、それ以上の何かを持っていながら、過去の欠点を全て押えた別のアプリケーションを探して試してみる事を楽しみとしている。

多分、PCを「PC」として使っている人には、相当使いづらいマシンであると思うが、
私のように、PCを「アナログなもの」として使っている人間には、
比較的、使いやすいマシンになっているという、ささやかで惨めな自負がある。

私の普段の言動を知っている人から見れば、いくつか矛盾を感じるテキストであったと思うが、
恐らくその矛盾は、単に私の言語能力の限界ゆえだろう。
この上手く言い表す事の出来ない感覚は、無理な言語化をすると多数の矛盾点が出てしまう。

が、ただ一つ確実に言えることは、
私は、PCをPCとして使える人間に羨望がある為に、Microsoftを恨んでもいるが、「私の」Windowsを愛しているし、
同時に、そのWindowsへの橋渡しをしている自分のこの感覚能力にも、多大な自信を持っている。
が、私の性格もあって、「人に薦める」という行為は、
明確に、「困りきっていて変えたいんだけど。」という意思を呈して来る人が現れない限り一切しない。

それは、私のように、自身の感覚を以ってPCを操っている人間に対し、別の感覚を押し付ける事に他ならないと思っているからだ。

あなたは、自分の感覚で選んだ服を見た人に、
「コッチの方がより優れたデザインと機能性をもった服なのに何故そんな服を着ているの?」
と言われたからといって、「自身の感覚で選んだ」要素を捨ててまで、着替えるだろうか?
勿論、近い感覚を有し、自身で見てもそちらが良いと思えば、そちらに着替えるだろう。

私自身は、単にこういうものがあるよと「存在を紹介するだけ」だったとしても、それは無意味であると思う。
それどころか、私には「紹介」することによる、デメリットばかりが思いついてしまう。
そういうものは、己で興味を持って追求し出す過程も重要なのだ。

私が、センスも検索能力も探求心もあると認めている人間に、あえて存在を紹介するという行為は、
「あなたにはセンスも検索能力も探究心も無いようだ」と、言っているのと同義に取られる恐れというものを感じている。
それは相手にとって、多大な侮蔑となってしまう。

私にしても、その存在を永久に知り得ないということは、まず無いし、
放っておいても、いつかは勝手に知り、試すのは当然の事。
人に、意図せずとも不快感をもたらしてしまう可能性のある事と、
そういった人間と認めているならば、自主的に手を出すであろうし、
自主性に任せたほうが、断然飲み込みも早いだろうと思う事を考えればこそとすれば、
少なからず理解して頂けるかと思う。

そして、そういう人間が何故、存在を知っていながらに手を出さないか。
それは単に、その人の感覚には反応しない。という事に他ならないんだろうと思う。

人に何を薦められようとも、自身の感覚での評価を第一としたいのではないだろうか。

それと同じ事が私はPCにも言えると思うので、誰に対しても、私の感覚で選んだ物達を自ら薦める事は、避けているつもりだ。

かといって、徹底する事が出来ていないのもまた事実だし、
無理に徹底する必要もないと思う。

私にしたって、未知の領域はまだまだ沢山あるし、今もどんどん広がっている。
誰かが紹介して連鎖して広まらなければ、そもそもが成り立たないし、
私自身、人に紹介され、初めて知って、使ってみて感覚にも合う。と言う事は少なくない。
そういうとっかかりとして、自ら紹介する人間は必要なのだ。

なので、私は、認知度が極めて低いと思われる、言わば「未だ隠れた良作」を発見した時に限り、
自らも、進んで存在を知らせる側となる事が多い。
が、あくまでそのもの、存在自体の紹介がメインで、
細々した細部の特徴や利点までは言わず、聞かれた時に知っていれば話す程度で、
今すぐ使っているものを捨て、こちらにするべきだ!とまでは言わないが。
実際の評価は、情報を得た人、本人自身でするものだ。
そして、ある程度、認知度が高まれば、また放置プレイに走るというわけだ。

そして、最後に、私が今一番思っていることは、

この記事を、一生懸命ここまで読んでくれた人が居たとしたら、多大な感謝と、自分の文章力の無さを謝罪したい。
それと同時に、この記事を、ここまで読んでくれた人は、ゼロだろう。と思う。(w
正直、ここまで書いてみたものの、自分の中の何一つも、ぼんやりしていた部分は明瞭になってこない。
自分の言いたい事は何だったんだろうか?
自分は何故こんな文を書いたのだろうか?
近年久々に、自分の中で沢山の?マークが踊っている。