例えば、

またもや自分語り系のネタ。もう、カテゴリ作っちゃおうかな…。(w

天井の清掃を仕事として任されたとします。
手元には洗剤の入ったスプレーボトルと雑巾。

おそらく、普通の人なら、雑巾にスプレーを吹き、その雑巾で掃除するでしょう。

私は、天井に直接スプレーを吹き、

重力は泡に対してどのように働くだろう?
泡は果たして天井に張り付くのか、一部張り付き、一部は落ちるのか、
平行移動して吹けば全ての泡が、落下する事なく張り付くのか、そもそも泡が天井に張り付く時、ミクロレベルの世界ではどのような事が起きているのだろう、分子と分子の結合?それとも隙間に入り込むだけ?

それを観察しながら、想像する事によって雑巾に吹いて拭く以外の、新たな手法が見出せるのではなかろうか?

という事から、幾度も天井に直接洗剤を吹き付け、失敗を繰り返し、床をびちゃびちゃに、
そして上司、同僚からはどやされ、呆れ果てた目と、侮蔑の目で見られるような人間です。

「お前バカだろ?」と。

仕事を遂行するという上では極まりなく非効率的ではあるが、
今まで誰も考えつかなかった事、無理だと思われていたことを可能にする魅力には抗えませんよね。

この例え話は、天井見ながら思いついた事だけど、かなり自分の行動理念を的確に表していると思う。

音楽を作る上でもそうだ。ゲームをする上でもそうだ。文章を書く上でもそうだ。プログラムを組む上でもそうだ。
往々にして理解されず、人付き合いが絡み協力して何かをという場所では、ただの足手まといにしかならない所以がよく解った気がする。

多分、はなから遊ぼうとして遊んでいるわけでも、仕事をしようとしてできるわけでもないのだろう。
物事を観察し、構造を推測、妄想し、仮説が浮かべば片っ端からテストし、実証する。

自分にとっての最大の行動理念は、見出す事、想像し、創造すること。
それが根本になってるみたいで。一番の美学となっている。美学となっている以上、
それだけはどうしても崩せない。崩す訳にはいかない。
ある意味、他者から見れば、淡々と同じ失敗を繰り返しているかのように見えるのも当たり前で、事実そうなのだ。
失敗するからこそ出来るはずと思ってしまう。
可能性が0.000001%でも有り得ることならば、それは可能で、そして一度でも成功できればそれを元に、更なる理論化を行い、極めて低い成功率を1%になるまで持ち上げる。

無理と言われ、不可能とされる事を越えようとする事以上に楽しいことなんて、自分には考えつかない。
「パズルはとかなければ、ゲームは勝たなければただの敗者」これは事実だが、それはゲームがゲームとして作られた以上、「当たり前」
私も勝負事に負けるのはそれなりに悔しい。
が、それ以上に楽しい事をしている間、そんな事はどうでもよくなってしまう。
私も使えない奴と蔑まれるのはそれなりに悔しい。
が、それ以上に楽しい事をしている間、そんな事はどうでもよくなってしまう。

他の人でも出来る事は、他の人に任せよう。
自分は出来ない事を出来るまで繰り返すだけだ。
快楽主義、それも利己主義的な人間なのだろうか。恐らく。