また、だらだらと自分語りになってしまったようで。
しかも、結局この文じゃ、どうしようもない。肝心な所の結論が出ていない。
なので、書き終えた今、ただの雑文となりました。
引き返すなら今だぞっ。(ぇ
一応、ReadMore扱いにしておくけど、mixi等から直接飛んでこられた方は、既に表示されてるでせう。

遠回りでもいい。
実際には辿り着けなくても構わない。
けれど、いつかは必ず辿り着けると信じて生きる事が、なによりも自身の「生」を意味付ける事であると。
だから、生きていられる。

目的を達する事が真意なのではなく、信じるられることが真意。
信じられる自分を作ることが真意。
目的を達する事が出来る人間に、「自分ならば必ずなれる」と信じる事の出来る自分を作り上げる事が真意。

「いつかは必ずと私も思っていた時は有った。でもやっぱり自分には不可能だ、
周囲の環境も許してはくれなかった。だから自分は達する事ができなかった」

そう考える人間より、

「いつかは必ず。どう考えても不可能だけど絶対に。もう周囲の環境も最悪だけど、それでも必ず。」

いつまでも、そう信じつづけられる人間に、私はなりたい。
それこそ自分を誤魔化して生きているだけではないか。とも言える。
が、「信じる」という事は、その人間にとって絶対の「真」であるという事。
その時点で、誤魔化しだと言う事が出来なくなる。「誤」は存在しないという事。

不可能という言葉は、可能ではないから、不可能なのであって、
不可能を可能にした、というのは、単に元から可能であっただけということだ。

しかし、現実は常に蠢く流動的なものである。
不可能と言われていた時には確かに不可能だったのかもしれないが、何かがそれを可能にする場合も有る。
それでも、可能になってしまった結果の上では、不可能では無かったということになる。

己が己を信じ、達することが可能である事を信じ続ける。
死ぬまでそれを貫いた時、死の淵に腰掛け、下界を見渡しながら、自分自身に祝杯をあげよう。
目的を達することが出来ていたとしても、出来ていないとしても、
ただ一つ、夢から目を背けずに人生を終えられたというだけでも、十分に大きな功績ではないか。